2016年3月28日

四旬節に身も心もデトックス

今年2016年の四旬節は、2月10日の灰の水曜日から始まり、昨日3月26日の聖土曜日に終わった。
四旬つまり40日と言っても、主日(日曜日)を含まない日数だから、日曜日数を足してやると46日の期間である。

灰の水曜日を過ぎても飲みかけのワインがあったので、それを空にしてから、少し出遅れたけれど四旬節の断酒に入った。
それを成就した昨日の「ハレルヤの土曜日」(Sábado de Aleluia)に、40日ぶりにビールとワインを味わったのだった。
全く偉業ではないのだが、達成感はあるものだ。
言い忘れたけど、私はキリスト教に興味を持つのだが信徒ではない。
節制も妻に付き合ったものである。

個人的感想を言うと、節制中に禁断症状のような苦しみは特になかった。
ただ聖週間の水曜日、木曜日あたりになると、最初の一杯への期待が否応なく膨らむのであった。
まあそれも過ぎたこととなって何よりである。
酒がなくても過ごせることがわかったが、再び毎日嗜むことになりそうだから、否定的に考えるとまた浪費の日々が始まったということだ。

キリスト教徒にとって四旬節の節制は何なのか。
まず人によってやり方が違って、これが正式といったものがない。
ある人は肉を食べずに、魚や卵に代える。
四旬節中ずっとそうする人もいれば、聖週間だけの人、四旬節の最初と最後、つまり灰の水曜日と受難金曜日、及び全ての金曜日だけ食べないという人もいる。
ある人は私が行ったように四旬節中ずっと酒を飲まない。
しかしある知人は、「私は一番好きなモノを節制する」と言って、ビールは飲まないがワインは飲んでも良いという、かなり軟弱な節制をしていた。

Wikipediaをみると、断食と節制を区別している。
イエスは40日間断食をして悪魔の誘惑と戦ったのであるが、生身の教徒が断食をするのは四旬節の最初と最後、つまり灰の水曜日と受難金曜日に昼飯を食べない、健康な人はもっと頑張っても良いと書いてあった。
もっと頑張るということは夕食を抜くということなのだろう。
水は飲んでも良いそうだ。
健康に自信のない人や妊婦さんなどは無理して断食しなくても良い。

ムスリムは太陽の出ている間は、水や自分の唾も飲んではいけないのではなかったか。
イスラム地域は乾燥地が多いのに、なんとも体に悪そうである。
最近は水を少しづつ絶え間なく1日2リットル飲め等と言われているので、健康のためには水くらいいくらでも飲ませてほしいものだ。

肉を節制することについては、一番美味しくて高価なものをやめることに意義があるようだ。
だから、ある記事では、おいしくて値段の高い肉を、同じようにおいしくて値段の高い魚に代えることは全く無意味だからやっても無駄だと書いてあった。
でもブラジルでは四旬節に肉を食べずに代わりに魚や卵を食べるという人が多く、米と豆だけで済ますという人はあまりいないようである。
カトリック教会の神父さんも、厳しくこれこれをしなければいけない、といったことは言わないらしい。

節制の意義であるが、カトリックとプロテスタントで、これはブラジル風にエヴァンジェリコと呼ぶことにするが、全く異なっている。
カトリックでは節制して浮いたお金は寄付など善行に使うべきだと、Wikiに書いてあるし、教会の神父さんもそう言っていた。
エヴァンジェリコでは、節制している事実は他人に話したり知られたりするべきでなく、密かにするものとなっている。
節制、禁欲はお祈りと同様に、個人と神の間の関係であってそこに他人が入る余地が無いということらしい。

40日間の禁酒はイエスの荒野の40日の荒行とは比べるのも恥ずかしい些細なものであるが、ご利益はあると言えそうだ。
この期間に採血して行った検査では、血糖、血中コレステロールや中性脂肪その他、全く問題点が見つからない健康状態であった。
もっとも禁酒を行わず、採血時間直前12時間の断飲食だけだった昨年も同様に健康体であったのではあるが。
健康診断のために禁酒するのは本末転倒だと思うが、一年に一度、ひと月半位の期間禁酒するのはデトックスにはなるだろう。

禁酒のカトリック的意義を達成するために、多少浮いたお金がなくなってしまう前にどこかへ寄付しなければと思っている。