2013年7月9日

ブラジルにはトラック野郎でなくトラック宣教師

トラック野郎という映画のシリーズがあった。
今も満艦飾デコトラは、日本の国道を走っているのだろうか。
にぎにぎしくて懐かしい昭和の風景になってしまっただろうか。
最近、トラック運転手の高齢化が進み、トラック野郎はトラック爺さんになってしまった、という記事を読んだ覚えがある。

ブラジルにはトラックを飾る風習はない。
後ろのバンパーや荷台に、格言や冗談を書くことはよくある。
トラック運転手の哲学(filosofia de caminhoneiro)なんて呼ばれたりする。
でも、今日書くのはそれについてではない。

今日近所の通りで見たトラックの、前面の屋根上の、バスなら行先表示板にあたるところに、こう書いてあった。
"SALMO 127"
乗合バスだったら、サルモ127(通りあるいは番地)行き、ということになろうが、これはトラックだ。

ポルトガル語で(Livro de) Salmos、英語では(Book of) Psalmsといったら、旧約聖書の詩篇のことだ。
「詩篇127篇」と書いてあるのだ。
ブラジルはカトリックが最大勢力であるキリスト教国だ。
だから、トラックが聖書を引用することもあるのか?
これは宣教トラックなのか?

それにしても、聖書の内容を直接書くのでなく、その目次項目を書かれると、好奇心が湧き中身を知りたくなる。
手っ取り早くWikisourceからコピーしてみる。

127:1
主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。

127:2
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。

127:3
見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。

127:4
壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。

127:5
矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

いったいこの詩篇127篇(詩編127編)のどこが、トラック野郎というかトラック宣教師の琴線にふれたのだろうか。
127:1と2では、主の意志にそわなければ、労働も節制も虚しいという。
127:3から5では、子どもたちは神から賜ったもので、多ければ良いという。
私の解釈が正しいのか、よくわからない。

もうひとつ気になったことがある。
ときどきみられることなのだが、日本語訳と英語訳で、意味が異なっているように思う。
127:4で、日本語で「壮年」と言っているが、英語ではyouth、ポルトガル語ではmocidadeと書いてある。
「壮年」は「心身ともに成熟して働き盛り」と辞書に書いてあるが、youthとかmocidadeとか言ったら、「若年・若造」ではないのか。
壮年と若年では、意味が微妙に違ってくる。

聖書の解釈はしばしば非常に難しい。
疑問を解くためには、教会に行って神父さんか牧師さんに尋ねるか、詩篇127篇のトラック運転手に聞くしかないか。

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